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開会ご挨拶 野々山 恵章先生(防衛医科大学小児科 教授)

みなさん、こんにちは。防衛医大小児科の野々山です。

 所沢小児科医会は、300回を迎えました。所沢小児科医会は、所沢地区の小児科医が毎月集まって、小児医療の向上をしようと勉強しあう会です。毎月勉強会を行うなど、非常に活発に活動しています。時には、看護師さん保健師さん、養護教諭の先生や助産師さん、保育士さんも勉強会に参加され、所沢の小児医療を良くしようと医療関係者一同が協力しあっている会です。

この所沢小児科医会の創設に尽力されたのが 時松先生であります。

 時松先生は、所沢市の小児医療を向上させようとして大変ご尽力されました。

所沢市民医療センターの小児救急を開設されたのも時松先生であります。所沢市民医療センターの小児救急では、夜間にもたくさんの子どもたちの救急診療をしています。

 当時、ご開業の小児科の先生方、病院の小児科の先生方、防衛医大も含めまして、多くの小児科の医師が一カ所に集まって小児救急を行うというシステムは非常に画期的であり、小児救急の所沢方式として世に知られるようになりました。

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野々山 恵章教授

​Copy Right 2013 写真・撮影 落合由利子

 今でこそ、病診連携ということで、ご開業の先生や他の病院の先生方などが一つの病院に集まって、その地区の子どもたちの救急を行い、子どもたちを皆で助けようという方式が確立し、全国に広まりつつありますが、その所沢方式を始められたのが時松先生であります。まさに、時松先生は、所沢小児科医会を生み出すとともに所沢の小児医療体制を創りあげた恩人であります。

 本日は、所沢小児科医会300回を記念しまして、時松先生のご講演と林家たけ平さん、三遊亭時松さんの落語を企画いたしました。ダブル時松ということで、お楽しみ頂けたらと思います。それでは、300回記念企画の会を始めたいと思います。

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来賓ご挨拶 柳内 仁先生(所沢医師会 会長)

所沢市医師会長の柳内でございます。

私は、このすぐ近くの元町で内科小児科を開業しております。小児科医会の端くれに入れて頂いておりますけれども、私の父も小児科を一生懸命やっておりましたので、小児科医会にも入っておりました。親子二代ということで、300回ということで。

医師会の中に非常に色々、内科医会があったり、外科医会があったり眼科医会や耳鼻科医会もありますけれど、一番活発なのがこの小児科医会であります。

時松先生は、先程も述べられておりましたけれど、昭和47年に下富で開業されました。以来、子ども達のために41年間、地域の医療に就かれております。
所沢医師会では、昭和53年から63年の10年間医師会理事、そして平成8年より10年まで副会長を務められております。

 

その間、私も時松先生の下で色々ご教授をいただいております。

医師会活動はもちろんのこと、時松先生はですね、障害者に対する医療に関しましても大変関心がございまして、昭和59年5月から平成8年の3月まで社会福祉法人皆成会「光の園」で12年間理事長を務められました。

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​柳内 仁先生

​Copy Right 2013 写真・撮影 落合由利子

知的障害者の方のために奔走されました。その法人の土台を築かれた方であります。

設立当初から、ずっと関わっておりまして、市内の障害者の方の親御さんで、時松先生のことを知らない方はいないというぐらいにご活躍をされております。また、医師会の方も看護学院の学院長も兼務されまして、色々と先生は地域の医療のために尽力を注いでおられます。

時松先生は、先程も述べられておりましたけれど、昭和47年に下富で開業されました。以来、子ども達のために41年間、地域の医療に就かれております。

 

設立当初から、ずっと関わっておりまして、市内の障害者の方の親御さんで、時松先生のことを知らない方はいないというぐらいにご活躍をされております。また、医師会の方も看護学院の学院長も兼務されまして、色々と先生は地域の医療のために尽力を注いでおられます。

 

どうぞ今後のご活躍を祈念してご挨拶と致します。どうぞ先生、おめでとうございます。

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ご講演 時松 昭先生(所沢医師会)

お話し、ありがとうございました。あまり褒められるとやりづらいんですけれど、私の独演をやっていきたいと思います。では、スライドお願い致します。

●自己紹介

まず最初に、自己紹介をしていきますが、1936年(昭和11年)、ちょうど2.26事件があった年です。大分県、大分県も色々ありまして、山の中、九州のチベットと言われるようなところで生まれました。まぁ、単純な経歴なんですけれど、高校は近くになかったものですから、大分市内に出て、高校の2年生から下宿をして、大学へ行って、国立横浜病院でインターン。横浜というのは、港が見えるいいところだと思っていたら、とんでもない、戸塚の山の中にありました。

●開院当時の世相

開院当時の世相を見ていきますと、72年にちょうど札幌に冬季オリンピック、浅間山荘事件、上野にパンダ、最初のパンダがきました。浅間山荘事件をなぜ出したかと申しますと、この時に大西洋のど真ん中で、貨物船の中でこのニュースを聞いておりました。

なぜ貨物船かと申しますと、開業はしたものの資金がない、なんかして稼がなくてはならない、一番お金になるのがシップドクターだったものですから、ヨーロッパに3か月間行っていて、月に一度テレックスが入ってくるものですから、船の中で見ていたんです。

翌年になりまして、原先生もいらっしゃいまして、国立西埼玉中央病院もできまして、それから5年経ちまして防衛医科大学校が開院致します。

前後5年を見ていきますと、こういった次第ですね。

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​時松 昭先生

​Copy Right 2013 写真・撮影 落合由利子

●所沢市下富の空撮映像

これは、今年の3月にうちの家からラジコンの飛行機を飛ばしてみたときの映像です。(会場「すご~い」)

まだ周りは、緑がかなり残っていますね。

向こうに秩父が見えて、こっちには、ちょうど入間の飛行場の滑走路もちょっと見えますかね。

この辺が空、西武鉄道の洗車場がここにありまして、ずーっと森が続いておりまして、この辺がうちであります。

41年前は、全くの緑で点々としか家がなかったです。

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​​Copy Right 2013 写真・撮影 落合由利子

●都内より所沢へ降下

こういったところに、都内の大泉に住んでおりましたけれど、落下傘で降りてきました。

(大笑い)下は、武蔵野の雑木林ですね。誰一人、本当に誰一人知らないところに

上から降りて参りました。

●41年前の診療所風景

最初の診療所をつくったんですが、林がありまして、団地の中の一番外れに建てました。

恐らく誰も来ないだろうということで、リスクを小さくするために、診療所の部分は中をつくりまして、住居は北中というところから1年半くらい通いました。

最初に来た、下富のおじいちゃんが、1回だけ来たんですけれど、その方が「こんなところで病院開いたって、キツネかタヌキしか来んぞ」(笑)と言って、帰りに「コンコン、コンコン」と咳をしてですね(大笑い)、後で考えてみますと恐らくキツネが降りてきたんじゃないかと思いましてね(爆笑)、患者さんはコンゾ、誰もコンゾ、とそれっきりそのおじいちゃんは来なくなりました。(大笑い)確かにそういうところで、この診療所の前でキジのつがいが来たり、ヘビがきたり、冬になると雪が結構降っていましたから、ウサギが飛び出して来たり、さすがにキツネやタヌキは来なかったですけれど、3か月間は患者さんは全くきませんでした。そういう状態が続きました。

 

●情報収集

せっかくつくったのですから、なんかどうにかしないといけない、ここで生きるしかないということで、いろいろな情報収集をするんですが、持てる力を全て出すんですね。昔からテニスや野球をやっていましたから、そういうクラブをつくったりですね、近所の子ども達を毎年11人集めまして、秩父の方へ山歩きに連れて行きましたりね、それから麻雀をやったりゴルフをやったり、あらゆる持てる物は全て発揮して、仲間づくりをやりました。それから、患者さん達からは、障害のある子のこととかですね、都内と比べると遅れているなということや保育の現状、学校の教室が足りない、通学路が危ないなど、色々と聴きました。それから、医師会仲間との交流では、患者さんを紹介したり、紹介してもらったりしました。ライオンズクラブからお声がかかれば、はい入りましょう、ロータリークラブも入りましょう。このライオンズクラブで一番お世話になった方が、今の市長さんのお父様の藤本哲生さん、大変お世話になりまして、この頃今の市長さんもまだ11歳頃でしてね、ほんのすぐ近くの20mくらいのところに私、住んでおりましてね、まさかここでお会いすることになるとは、お釈迦様とて知らなかったと思いますが…。(笑)

 

●1972年(昭和47年)以降の所沢市の人口推移と課題 

その頃の所沢市の人口ですけど、72年に開業しまして、10年ごとにみていきますと、最初の10年は、9.9万人、約毎年1万人ずつ増えていっている。

それから、次の10年で5.9万人、その次の10年では2.5万人、ここ最近の10年間では、わずか7000人、毎年700人しか増えていないわけですけれど、当初のように急激に人口が増えてきますと、当然保育園が足りない、幼稚園が足りない、小中学校の教室が足りないということで、教室ができたようなんですね。

そして、大体団地ができますと、医療機関では産科、小児科、という順番で増えていきますけれど、年を追うごとにその順番に少なくなって不足しております。

また福祉施設、特に障害児者の施設が、都内と比べて格段と差がありお粗末だなと思っておりました。

 

●天然痘及び種痘による副反応について

話はちょっと変わりますけれど、その頃一番医療で問題になっていたのは、天然痘のワクチンによる種痘ですね、種痘の問題がありました。

種痘禍と呼ばれておりましたけれど、開業する2~3年前から問題になっておりました。天然痘と言っても、知らない人がほとんどですね、

この間昨年改定した小児科の教科書には天然痘のての字も出ていない、ましてや種痘なんて出てきやしませんが、かかれば非常に致命率が高いという、治っても顔に痕があばたのように残るという。外国では大流行がありまして、日本でも明治時代には年間2~7万人程度の流行が6回もありました。また、戦後1年経って、私が小学校4年生の頃には、18,000人の患者さんがいて、約3,000人くらいが亡くなりました。非常に怖い病気だったんですね。

そういうことで、種痘が行われていたんですね。翌1947,48年になりますと、患者さんは405人しかでなかったんだけど、種痘による副反応で、600人以上もの方に色々な副反応が出て、中には亡くなられた方も出てしまいました。

 

●種痘後の発熱、腫脹

この写真は、開業早々市の予防接種をやってこられた方です。1週間~10日経って来られたんですが、種痘をここ(右腕の上の方)にやりまして、かさぶたが大きくなり、周りが真っ赤になりまして、脇の下のリンパ腺にいき、その後目に飛んで結膜炎になりました。これでも、種痘の副反応としては非常に軽い方でありまして、大学病院へ行きます本当に重症の方がありまして、折角ワクチンを受けたのに何なんだろうという時代でありました。

 

●種痘

種痘といえば、Edward Jennerということで、自分のお子さんにまず試してやった。

それは、人の天然痘のワクチンでした。その7年後の1796年に、今度は自分の診療所に来た8歳のお子さんに打った。

それは、牛痘のワクチンで、なぜ牛のをやったかというと、当時乳搾りの人にはかからないと言われていて、それをヒントに開発されました。

まだ、免疫学の本当にはじめの頃のことでした。日本でも、細々とやっておりますけれど、1858年神田岩本町「お玉が池種痘所」ができ、これが後に東京大学に発展するのですけど、1884年に政府が正式に牛痘由来の痘苗を輸入するんですけれど、いろんな副反応が出て問題になります。

そうして、お玉が池からちょうど100年経ち、1958年にWHOの総会で、とにかく地球上から天然痘をなくそうという運動がありまして、お金を投入し、ワクチンも投入して、徹底的に封じ込め作戦をしようということをやりまして、その成果が出て、早速1971年には、もう米国では定期接種をやらなくなります。

その2~3年前から、日本にもこのワクチンは、よく免疫ができるので、これを少し弱くして使ったらどうだということで探求がはじまりまして、私も友達と種痘研究班ということで所属しておりましたから、臨床の立場で関東の方々へ行きましてフィールドワークをやってきたんですけれど、旧来のLister株からLC16m8という新しいワクチンは、副反応がないことも分かっていたので、自分の診療所にポツポツこられる患者さんに、そのうちなくなるでしょうけれど、まぁ今のうちにやっておきましょう、ということで打っていたら、段々と知れ渡ってそのうちに、行列ができるようになってしまい、これは弱ったということになりました。

結局、1977年ソマリアの患者さんを最後に、天然痘は地球上から根絶致します。

 

●所沢市の対応

それで、所沢市の方と大学病院とお互いに話をつけまして、とりあえず2~3年だろうから所沢でもやりましょうということで、同じLC16m8という株を持って来て、お隣にある旧市役所の4階の会議室でみなさんを集めて、大学から毎回4~5人きてもらって、4,5回来てもらったでしょうか、1000~1500人くらいの人達に接種いたしました。

そして、後で調べましたけれど、副反応はなかった、そのうちに種痘接種が中止になったということであります。まぁ、こういったことから、市の方々とも少し知り合いになれましたね。

 

●開園当時の無認可保育園(1973年)アンドレアホーム

患者さんも来ないし、職員も雇っていけないということで、女房が受付をすることになりまして、一番下の子どもがまだ3歳だったもので、どこかへ預けないといけないという話になって、市の保育園に行ったり、いろんなところを探したんですけれど預かってくれない。じゃあもういいや、自分達でつくろうということで、無認可の保育園をつくりました。

福田さんという、うちの看護師さんだった方を園長にしようということで、後私の知り合いでつやまさんという方と、栄養士さんと私の4人でお金を出し合いまして、たまたま新所沢の中央公園の端っこに、農家の方が300坪の敷地に家があり、家はおんぼろだったんですけれど、ご自由にお使いください、壊しても何でもいいですよ、ということで、これは幸いとそこに手を加えたりしましてね。

広い庭だったものですから、プレハブの小屋を2棟分、いや3棟建てましたかね。

それで麻疹の子どもが出たら麻疹小屋、水ぼうそうの子どもが出れば水ぼうそう小屋ということで、病児保育という名前が今はありますが、とにかく病気でも何でもいらっしゃい、ということで、全国でも珍しかったかもしれませんね。

こんなことをやっておりまして、結局無認可のものですから、お金は市からはわずかしか出ない、1人の保母さんに対して3人まで預けていいということで、約10人の保母さんを集めまして、そうすると30人くらいお子さんを預かれるということをやっておりましたが、5年くらい経ちましたら地主さんからそろそろ立ち退いてほしいと言われました。

私達も、お金がかかり過ぎる。これ以上かかると、ご父兄からも負担してもらわなくてはならない、そろそろ辞めようか、というところにこの園長はじめ、保育士さん、あるいは親の会が立ち上がりましてね。

せっかくここまできたんだから認可の保育園にしようということで、一生懸命浦和の県庁まで通って頂きました。それで、10回以上通ったでしょうか、それで認可の保育園ということになりました。そこで活躍した人の中から、市議会議員が1人、保育園の子どもの中から保育士さんになった人が1人います。

 

●北所沢町に認可の保育園(1978年)社会福祉法人松の実会:アンドレア保育園

それで、認可保育園ができ、どこにしようということになりまして、市と交渉したところ、北所沢に小さな公園があるので、半分貸しましょうということで、45坪借りまして、鉄筋の2階建てを建てました。

そこには、0歳と1歳だけで、2歳以上の子をどうしようかと近くに土地がないかと探しましたら、たまたますぐ近く、20mくらいのところに農家の方がうちの300坪の土地をどうぞ使ってくださいということで、今なら1坪50万円くらいする土地ですから、バブルの頃はさぞかし大変な金額だったと思うのですが、それをほとんどただ同然でお借りして、そこに分園というのをつくりました。これで、分園と本園ということで、20mくらいしかないんですけれど離れていると、職員の方々がいろんなことで不便を感じたものですから、また近くに統一しようということになりましてね、またこの農家の地主さんがもう300坪、合計600坪、今でいうとウン億ということになりますね。

またその地主さんの山から切り出した檜があったものですから、新しくできた園舎は総檜造りという、全国でも大変珍しい貴重な保育園ができました。そういうことをやりまして、これももう、最初からいうともう40年近くということになりましょうか。

 

●大人も子どもも楽しんで

アンドレア保育園の中で、保育士さんの後ろに子ども達が一列に連なって、楽しそうに歩いている映像が流れる。

その次に、多摩動物園に子ども達を連れて行った時の写真。

 

●所沢のイメージ

こういうことを色々とやっているうちに、所沢のイメージが私も変わってきましてね、「西武鉄道の町」城下町だと思っていましたけれど、だんだんやってくるうちに、これは非常に何もない西部劇に出てくるような街ではないか、西部の街ということで、これは何かこれからやるには非常にいいかな、新しくやるにはもってこいの街だなという風に考えました。

 

●最初の高価な買い物

そこで、一番最初に大きな買い物をしたのは、お墓でございます。ここで、まぁ一生所沢にお邪魔しましょう、(笑い)死んでもお邪魔しましょう(笑い)、そういうことで、お墓を買いまして、ここでふらふらせずに一生過ごそうということで、高い買い物を致しました。

 

●所沢小児科医会

本題に戻りますけれど、所沢小児科医会というのを、お話しましたように、私が開業して5年目に防衛医科大学校ができたものですから、こういうものをつくりました。

先程ご紹介がありましたように、私達医師会の株組織ではなくて、埼玉県の南部の先生方も入ってもいいということで、秩父から、鶴ヶ島とか富士見町など色々なところの先生も入って下さってですね。

先程原先生がおっしゃった通り、第1回に26人集まって、そこの晨麓苑で会を楽しくやりました。私達の勉強会だけではなくて、オープンにして色々な人達と話をしよう、情報交換をしようということで、一般市民の方々を集めたり、あるいは患者さん達の家族との会もやりました。

 

●所沢小児科医会の歩み

これが、今までの経過ですけど、これはそういう話があってから2か月足らずのところで第1回をやりましてね、100回目、200回目、300回目と今日にいたるわけですけれど、いろんな人に来て頂きました。

例えば、78回目に来られた大阪大学微生物研究所の高橋理明先生、この方は、今使われている水疱瘡のワクチンを開発された方で、WHOで唯一認められている水疱瘡のワクチンで、世界中で使われているのは、この先生が開発された水疱瘡のワクチンでして、今でもお元気な82歳でございますね。このような方をお呼びしていますね。

次に、100回目は飼育家の中川志郎さん(上野動物園園長)。私が開業した時に上野動物園にパンダがきましたけれど、その時のパンダのチームリーダーとして活躍されまして、上野動物園に勤務されました。

この先生のお話では、子育てで困ったときには、まず動物にかえって考えてみたらどうだ、ということで、例えば丹頂鶴の親子が子育てするときには一生懸命子育てするけれど、ある時期になると徹底的にいじめて、自分の巣から追い出そうとする、そういう非常に人間にも参考になりますね。

それから、私の大好きな中村孝先生、初代の県立静岡こども病院の院長なんですけれども、今までの育児の仕方をちょっと見直そうではないか、ということで、何故白湯をあげなくてはならないのかとか、白身の魚じゃないといけないのかとか、そういうちょっと普通すぐ気付かないようなことをお話し頂きました。200回目には、元国会議員、黒岩秩子さんをお招きして「共に育つ」というテーマで行いました。

 

●日本外来小児科学会初代会長徳丸実先生

1980年2月26日所沢市医師会にて

前後しますけれど、17回目には、松山市から徳丸実先生という方をお呼びして、この方が40歳ちょっと過ぎの方ですけれど、1980年2月にお呼びして、新しい学会をつくろうということですね、それは、今まで小児科学会にいて、自分は小児科が専門だから、小児科のことは何でもわかるかといえば、他の科、他の分野になると分からないんですね。

それで、一生のうちで会えるか分からないようなそういう楽しい時を過ごせることができて本人来た甲斐があったかなということで、実践的な学会をつくろうという話が出ました。

それと、これからの小児科は病院に頼るのではなくて、外来をもっと充実させて、外来でできることはなるべく外来でやろうという、そういうお話もされまして、早速、それから11年後ですけれど、日本外来小児科研究会というのをつくり、後で学会になったんですけれど、つくりました。

 

●日本外来小児科学会 日本小児科学会分科会

第1回が、松山の徳山先生のところで行われまして、私も午後の部に呼ばれまして、久留米市先生と姫路市の先生と私の3人で、予約診療をどうするかで、それまでは小児科で予約診療なんてちょっと考えられなかったんですね、でも4~5年前からやっていましたが、色々な本にも出ておりましたので、そういうことで呼ばれたんだと思いますけれど、予約診療をどうするかということについて、3人で一時間くらいしゃべりました。

それから、今は電子カルテがというのがあって非常に便利なんですけれど、カルテをどういう風に管理するかということについても話し合いました。

それで、2000年には第10回日本外来小児科学会では、山中龍宏先生という会長で、「アドボカシー」というテーマでお話しされたんですけれど、私はそのちょっと前から、時間外診療のことをやっていたものですから、この第10回の会に合わせるためにその前に、関東地方東日本の人達が集まって色々研究会をして、その第10回に持っていこうとそういう企画があったものですから、その第2回東日本外来小児科学会というのをできたばかりの所沢市保健センターで、私が一応会長ということでやりまして、関東地方で時間外診療をやってくれている先生方をお呼びしてここで色々とディスカッションやりました。

それで、2000年の第10回は、大宮のソニックシティでやったんですが、その時も全国北海道から沖縄まで、20か所の先生方を呼んで、一時間半くらいですかね、どういう形態でとか発表しあいました。2009年第19回は、そちらの原先生が会長で、同じく大宮のソニックシティで行いました。2000超したのは初めてなんじゃないかと思いますけれど、2000人以上の方が全国からいらして、大盛況でして、所沢小児医会も全面的にバックアップして成功例に終わったということです。

 

●所沢市小児夜間診療 開設までの経緯

小児科の夜間診療ということで、私が2年の副会長ということでしたから、2年間でどうにかしようということで始めたわけですけれど、いろんな会議がある度にですね、とにかく小児の時間外診療ですね、夜間診療が非常に困っている。

特に消防署の電話をかけられても行き場がなくて困っている。

また、防衛医大、国立病院、清瀬小児病院からも会議の度に、しょっちゅう苦情が出て、こういう軽い人達を扱っていると、本来の3次の診療に支障をきたす、という話がある。

じゃあどうにかしようということで、この3つの病院へ行きまして、色々とアンケート調査をさせて頂きました。

それで、色々な行政、議会にも根回しをしまして、36名でしたか、議員さんを見つけてほとんどの方にお会いして、こういうことをやろうとしているから協力してほしい、と根回ししまして、1997年の159回の小児科医会で私が話しまして、色々な方が集まって対策会議をやりました。その後に、私の任務がようやく終わりまして、次の方にバトンタッチをしたわけですけれど、その方と共に非常な努力で無理して立ち上げてきたわけです。

 

●時間外受診の理由は?

どういう理由で、この時間外に来られるかというと、調べますと、核家族化が進んで相談相手がいない、何でも心配になってしまう、医療費が無料だから気軽にかかれる、朝から悪いけれど、夫が帰ってこないから夜になってきた、こういう方は大体ひどくなってからくるんですね、医療機関もビル診化になってきたものですから、夜間に行くところがないということで病院を探すのが大変、公立病院だから絶対に診てくれる筈だ、という思いがあるわけですけれど、ご存知のように小児科医は婦人産科医と共に非常に少ないんですね、

そういうわけで、過労死になったりすることもあるわけですね。

 

●受診者の重症度別患者割合 都立清瀬小児病院

清瀬小児病院で、色々と結果をとりましたことには、これは小児病院の医者の立場から見た場合ですけれど、来た人の7割が軽度である。

まぁ、患者さんにとっては非常に重いと思ってきたんだけれど、医者の立場から診れば別に夜来なくてもいいんじゃないかというのが7割。今日来て良かったな、というのが2割ですね。

重度の人も、喘息の発作が起きたり、けいれんが止まらないというような人も1割くらい、とこういうことです。

 

●地域別受診者数(都立清瀬小児病院)

では、どこから患者さんが集まるのかというと、都立ですから、もちろん東京都の人が2/3くらい、そして埼玉県が何と1/3ですね。32%が埼玉県、その他が2%。これは、院長と会いまして、東京都立埼玉小児病院ですね、と向こうが言いました。(笑い)

それで、先生こっちを見て、と見せてもらいましたら、埼玉のうち半分が所沢の市民でしてね、絶叫しました。(笑い)これから見ますと、32%の所沢の市民が清瀬に行っている。

もちろん清瀬に行くぐらいですから、国立病院にも防衛大にもそれ以上の方が行っている筈ですね。

 

●所沢市の広報 1999.4.1 小児夜間診療開始

そういうことで、私の後を継いでくれる方々が続けましたんで、1999年の4月に小児夜間診療というのができまして、その時の市報に出た記事ですね。

 

●小児夜間診療開始のポスター

こういうポスターも作りました。

 

●開院初日の外来風景

これが初日のスタッフと患者さん第一号ということで、始まりました。

 

●その結果は

その結果どうなったかというと、第2次、第3次との病院としての機能が果たせるようになって、重度の患者さんに十分な対応ができるようになりました。時間外の患者さん達も、あそこに行けば、~時ごろまではやっているんだ、と安心感が生まれたと、そして救急隊も医療機関も医療ストレスが軽減、とまぁ良いこと尽くめではないと思います。

この中にはまだいろんなことがあると思いますけれど、まぁ一応こういうことです。

ただ、問題点がありまして、これだけやるにはやはり財政的に非常に負担、市の方にも抵抗があると思うんですね。それから、代々小児科担当の医師会の理事さんがいるんですけれど、一番困っているのは、スタッフを確保することですね。

先程も言いましたように、小児科医が非常に不足している、そこからピックアップして連れてくるわけですから、大変な仕事ですね。

一番の重荷だと思うんですけれど、今のところ順調に動いております。

 

●所沢市市民医療センターでの小児急患診療の現状

これは、最近出た市の広報で、ほとんど365日ですね。医療センターの小児科医の先生達が非常な努力をなさって、こういうことができるようになりました。

 

●かしの木学園(所沢市心身障害児母子通園施設)

障害児のことをちょっと話しますと、1974年にこぶし団地の中に園舎ができましたけど、その2,3年前から、ここのお隣にある文化会館でささやかですけれど、9人くらいの親子が集まっていろんな療育活動をやっていました。

そこに市の受けもっていた子ども達も集めて合計26人になりまして、手狭になったということもありまして、こぶし団地の中にこういう社会福祉協議会のお力がありましてできたんですね。これで12年間やりまして、今の中富の園舎に移ったわけですけれど、この時にですね、山本さんという人と遠山さんは、学校を出たばっかりでして、山本さんは後にここの園長になりまして、遠山さんというのは、芸大の声楽を出て、歌声が素晴らしいテノール歌手みたいな、その先生が卒業してすぐにここへやって来て、おおなんで音楽家が来るんだろうと思っていましたけどね。

ここでいろんなことを勉強されて、宇都宮大学へ行ったり、国立音大に行ったり、今は東京芸大の教授をなさっていますね。そういう方が、ここから出ました。そして、今のこの園舎で、最初からいらっしゃる山本さんが園長を務めて、今は瀬下さんもいらしていますね。

 

●光の園 1980年開園(通所厚生施設社会福祉法人皆成会)

就学前の障害児は、一応ここでどうにかなる、それから養護学校ですね。

今は支援学校といいますけれど、そこで初等部、中等部、高等部がありまして、そこはまぁいい、そこから出て、17,18歳になって、さぁどこに行くかとなりますと、行き場がない。

在宅だけの人用に何かしなくてはならない、ということで新しい法人をつくるわけです。1980年、社会福祉法人皆成会ができるんですけれど、この2年前くらいから、すぐ近くの斉藤耳鼻科をやっておられる初代の斉藤裕一先生を中心に、その頃「親の会」というのと「守る会」という障害者の団体があるんですが、全部まとまりまして、新しい通所の厚生施設をつくろうという話になり、私も仲間に入りまして、まぁどこへ行ってもお金がないんですけれども、市内にお住いの高橋玄洋さんとか、画家の山口惣操助先生、西山周平さんなどの方々が「友の会」というのをつくってくれまして、いろいろボランティア活動やチャリティショーとか、チャリティショーには、サザンオールスターズ、山田邦子、とんねるず、プリンセスプリンセス、色々な方が来られて建設資金の一部ができたんですね。

それで、これができる一年くらい前に、アンケート調査を障害者の方々にしましたところ、60人くらいは入るだろうということで、まぁ定員は40人なんですけれど、まぁこれなら上手くいくだろうということで、オープンしたんですけれど、ところがなんと、5人しか来ない。働く人は、バスの人もいるし、スッタフも全部揃えているのに、たった5人分の処置費しかこないもんですから、早速給料を払うことができない。車のガソリンも買うことができない。

そういう窮地に陥りまして、当時の初代の園長は柳川さん、斉藤先生が初代の理事長だったんですけれど、3年後、柳川園長はまだ50歳ちょっと過ぎで若かったんですけれど、急死されてしまい、同じ年に、斉藤理事長も亡くなられて、理事会はパニック状態。

その後、三浦さんという方が臨時に理事長をやっていたんですけれど、私が理事の中では一番若くて、一番死にそうにないと思われたんでしょうか。(笑)

私が理事長になりまして、じゃあとにかくこういう状態だから、1年だけはやりますけれど、1年経ったらもう辞めますよ、ということでやったんですけれど、結局ズルズルと13年やることになりました。

まぁ、とにかくお金がないということが一番で、私の昼休みにはせっせと斉藤洋元市長さんのところに出掛けましてね。

私が出かけると元市長さん達はちょっと退いていたようです。一番困っていたのは、障害福祉課の窓口の松浦さんとか荒幡さんとか、今日お見えになっているかもしれませんけれど、とにかく喧嘩ばっかりしておりました。

善意と善意ですね。向こうも善意でやってきている、私達も善意でやってきている。

善意と善意がぶつかると悪意が生まれるという。(爆笑)

まぁ悪意までは生まれなかったんですけれど、よく喧嘩をしました。

今は、荒幡さんとは非常に仲良くなりまして(笑)、このスライドをつくるのにも色々と手伝ってもらいました。そういうことがありまして、そういう風に四苦八苦しているところに市役所からもう一つ施設をつくってほしいという、とんでもありません。

これだけ借金が続いているのに、光の園も5年経ったらようやく40人の定員になったんですね、それでも借金はずーっと続いておりますから、みなさんにお正月のカレンダー、ねずみのカレンダーを売ったりですね。ステッカーは細々とお金を稼いでいるという、そういう状態で、もう一つ新しいところをつくってほしいなんて、とんでもないということですが、だけどまぁ子ども達が困っているんだから、条件を付けましょう、ということでできたのが、キャンバスです。

 

●キャンバス 1992年開所(社会福祉法人皆成会所沢市立)

これは、富岡小学校の前にあります。隣が富岡保育園ですね。こういう園舎をつくりました。ただ、条件としては、建物は全部市がつくって下さいよ、お金も出して下さいよ、

職員の給料は全部出して下さいよ、運営だけは私達がやります(笑い)。

まぁ、そういうことでいきましたら、それでもいいよ、ということで、所謂公設民営ということで、定員50人ですね、いつも満杯です。これが、段々発展しまして、私の後に○○さんという方が理事長になりまして、その後が今医師会長をされている柳内さんが理事長ということで、精力的にやって頂いているものですから、今は職員が100人をちょっと超えますし、利用者も150人を超える大きな施設になりました。

 

●沖縄の県花 デイゴ

話はガラッと変わりまして、これは沖縄の県花、デイゴですね。

今頃一番きれいに咲いていると思うんですけれど、私が2年間だけ所沢市医師会の看護学院で学院長をやりまして、毎年一年生を連れて沖縄の方へ修学旅行に行きます。沖縄というのは、ご存知のようにひめゆり部隊ができて、いろんな地上戦やって、看護師さんにとっては一番の原点だと毎年行ってきたんですけれど、私も引率ということで連れて行ったんですけれど、女性ばかりのところに男が一人いるのもどうかと思って、私だけ携帯持って何かあったら呼びなさいよ、ということで他のところをうろつきました。

折角行くんだったら、何か思い出になることをしようと思って、みなさんから500円以下の寄付をしなさいということで、40人の学生から4000~5000円集まったでしょうか、それを持って私からも出して、本を買ってきましょうということで、ネットで色々探しまして、これが面白そうだ、ということで南城市の久高島ですね。

 

●沖縄県南城市久高島

この時は、まだ知念村といい、知念岬からわずか5.3キロのところにあります。

神の島と言われ、ここに大昔アマミキヨが天から降りてきて琉球大国をつくったということですね。

その後、琉球の王様は、毎年ここへお参りにきたという、民族的には非常にユニークなところですね。周囲8キロですから、自転車でぐるっと一周しますとあっという間ですね。住人は、当時は198人でした、今もあんまり変わりませんけど。

 

●久高小中学校全員集合

ここを訪れまして、これがオールキャストですね。小学校だけではやっていかれませんから、小中学校全部一緒になって、子どもはわずか11人です。職員が15人ですね。

そこで聞いた話では、私の一番の親友のいとこがここの校長先生という、初めて知りました。それから、こちらの先生は、私は5月に行ったんですけれど、その2か月前まで所沢の東口にいて、所沢の小学校で先生をしていた、というそういう偶然があったんですね。

こういうことで、一日自転車を借りて島をうろちょろしたり、一緒に給食を食べたりということで一日を過ごしました。

 

●久高小中学校・時松文庫

こういう本を持って行って、贈呈式ということをやって時松文庫となっております。それからずっと続けておりますので、もう何百冊かになったと思いますけど、その後また行ったんですけど、続いているようです。

 

●久高小中学校の放課後

放課後はですね、学校の先生もほとんどは単身赴任ですから、暇が多いですから、今までみていた子ども達とみな一緒に部落に出て、みんなと一緒に夜遅く、真っ暗になるまで公園で遊ぶと、私達が九州のチベットで味わったような生活をいまだにやっているところがあって非常に感銘致しました。

 

●道路は俺の物

車も全体で10台もないようなところですから、道路はおらの物ということで、子ども達本当に懐かしい風景ですね。私の頃と違うのは、子ども達はみんな草履を履いているんですけれど、私達の頃はほとんど裸足でした。まぁ、いい人はわら草履を履いていました。こういう光景があって、今でもほとんど変わっていないと思います。

 

●別れの波止場

これは、お別れの時に校長先生、主任の担任の先生、子ども達、「二十四の瞳」のお別れのシーンのようなこういう感じですね。

 

●医師の業務

色々お話してきましたけれど、私達は日常、クリニックで診療を行う生活をしており、年に1,2回は、休日の診療が回ってきます。

そして、ほとんどの先生が、施設や保育園、幼稚園の園医をしております。学校医も2,3割やっています。耳鼻科や眼科の先生は人数が少ないものですから、一人で5~10校やっています。ほとんどの昼休みは、費やしています。

その他に、市のいろんな健診、大人達の健診があったり、子ども達の健診があったり。更に、医師会の役員は十何人いますけれど、医師会の役員もやらなければならない、医師会の役員をすると市の役員もしなくてはならない、こういうことで、この辺になりますともうほとんど手帳は、昼の部と夜の部も真っ暗真っ黒ということですね。

医は忍術だけだと納まらずに体力ですね。体力がないと、医者はできないわけで、体力づくりをしないといけないわけですけれど。

まぁ、もちろん先程も言いましたように、この日常の診療だけでもやっていけるわけですけれど、一歩、私達も外に出ることによって、いろんな社会が広がっているということが分かります。幼稚園のこと、保育園のこと、例えば障害者のこと、いろんなことが落穂ひろいのように、落穂がたくさん管路に広がっているんですね。

それを一つずつ拾っていくと、いろんなことが医者じゃないとできないようなこと出てくると思っております。

 

●Advocacy 弁護・代弁

第10回日本外来小児科学会の大宮でやったときの、会長の山中さんのメインテーマは「アドボカシー」、日本語にすると弁護とか代弁という意味なんですけれど、私達にとっては、「自らの自己の権利を充分に行使することができないマイノリティー、社会的な弱者、例えば、声を出せない子ども達、終末期の患者さんの心、それから障害者、こういう人達の代弁をする」そういうことが、アドボカシーにつながると思っています。

 

●各地小児科医のAdvocacyの例

全国で、他の先生方も色々やってらっしゃいますが、小児科医に限ってだけ言いますと、こういうことをやっていますね。先程から話に出ている横浜の山中先生は、事故防止活動。

所沢の原先生は、西埼玉国立病院に勤めていらっしゃった頃は、院内学級をつくりました。長期入院をする患者さんのために、病院の中で学校にも行けるようにということで、若葉分校というのをおつくりになった。

今はもうないですけれど。ワクチンのパレードも先月やりまして、9月にはママチャリで、麻疹風疹撲滅運動をやろうということになっております。静岡の岩田先生は、自称ドクターコーイということで、しょっちゅう学校へ行っていろんな活動をしておられます。先程の医師会長の柳内先生のお父様も非常に熱心で、所沢市の小学校にほとんどしょっちゅう通っておられたということを私はよく覚えています。

大阪の武内先生というのは、しょっちゅうロビーに行ってワクチンの活動をして、そのお蔭で、肺炎球菌ワクチン、ヒブワクチン、色々問題にもなっていますけれど子宮頸がんワクチン、非常に意義のある活動をされていると思います。今日は、内海先生お見えでしょうか、非常にどこの会にも顔を出される非常にタフな先生でして、近くの保育園で絵本の読み聞かせをされたり、いろんな情報を発信される全国区の先生ですね。今度の参議院選でいよいよ立候補、はしないですけれど(笑い)、よろしくお願い致します。

太田先生というのは、もともとは広島出身ですけれど、今千葉市で開業されています。この先生も中々やる先生で、野球場とか電車の中でワクチンの広告を出しているんですね。

 

●野球場でのワクチンの広告写真「MRワクチン打って 風しん完封」

これは、今出てくる広島市民球場の広告ですね。一年契約で、一年で何百万円もかかる。もちろん一人でできないですから、日本外来小児科学会の先生方も中心になっているんだと思うんですけれど、みんなでお金を出し合ってこういう活動を行っています。このように、診察室から一歩外に出ると、いろんな仕事が待っているんだなと思っています。

 

●むすび

むすびになりましたけれど、私は昭和11年生まれでねずみ年なんですけれども、ねずみにも色々ありまして、大黒ねずみがあったり、ドブネズミがあったり、私はどちらかというと二十日鼠で、いつも檻の中で車をゴロゴロゴロゴロ回していないと気が済まない性格なんですけれど(笑)、ひとつ前のイノシシにも少しその気があるかなと、なんかやり始めたら一目散に駆けはじめると、猪突猛進というかですね。

性格的にも、人に任せられないとか、待てないとか、例えば午前中の診療が終わってお昼ごはんになったら、ぱっとご飯が出てないと気が済まないとか、そういううちのおばさんにお世話になっております。(笑)自分で動いた方が早いからと、自分ですぐに動き出す。但し、長続きはしない。とにかく出来上がるまでが楽しみで、出来上がったら早期撤退する。幸いなことに、所沢の小児科には後を継いでくれる先生方がたくさんいる。

だから今までやってきたことが全部つながっているんですね。

そういうわけで、いろんな友人もつくれました。また、さっきお話ししたように、いろんな了見で善意と善意がぶつかってバトルもしましたけれど、今ではみなさんとも仲直りしております。身内には、こういうことで休みがほとんどなかったものですから迷惑をかけました。

子どもが3人おりますけれど、授業参観0、運動会も0ということで、唯一の自慢話です。(笑)いろんな人に影響を受けたんですけれど、小中高大といろんな先生の影響を受けました。小学校の時には、私入った時にすぐ隣が斉藤しげお君という子どもがいました。その子が、しょっちゅうてんかんの発作をおこして、その時先生がなんて言ったかというと、「あんた医者の子だから、最後まで面倒みなさい」(笑)って、遂に6年間、小学校卒業するまでずーっと隣にいました。チームが6人おりまして、6人がそのままずーっと6年間、とんでもない先生でした。それから、中学では、私が走るのが大嫌いでしてね。

仕方がないから1000メートル競走の時に、500メートル終わった時に後もう一周ありますから、もう途中でやめようかと思ったら、担任の先生が、「おい時松、最後まで走るんだぞ、歩いてもいいからやれ」ということでした。

高校は、まだできたばかりの高校で、校長先生が非常に大目にみてくれましてね、3人の生徒に特別音楽教室を与えるから、そこを自由に使いになさい、ということで、一人は芸大のピアノ科を狙っていてピアノの練習、私は医学しか頭になかったんですけれど、もう一人は経済ということで、その3人に、何時でもいい、夏休みも自由に使いなさい、ということで、そのピアノをやっていたのは、遂に最後は芸大のピアノ科の教授になり、もう一人経済出たのは一応経済評論家になり名前も出るようになって、私はずっと所沢に住んでおります。

大学の時に習った小児科の先生は、突発性発疹という7割くらいのお子さんがやるわけですけれども、その時に熱が最初に出て、一回下がって発疹ができるというわけですけれど、早くそれを見つける方法というのは、のどちんこの周りに赤いぶつぶつができる、それを見つけられた、非常に臨床的にも、学生の教育にも熱心で、研究にも熱心だったんですね。永山斑というんですけれど、それを見つけた先生です。

その先生の影響で、やるんだったら、小児科をやろう、というわけで小児科になったんですね。いろんな学校の先生達の影響が非常に大きかったと思っています。

 

●忘れられない俳句 日本医学会総会で紹介された五木寛之氏の知人の句

患者さんが来なくなりまして、100日くらい経つんですけれど、8時40分になると診察室でパソコンの電源を入れるんですね。(笑)

もう癖になって、40年の癖が出てまして。この句は、十何年前、福岡で学会があった時に、五木寛之さんが紹介された知人の俳句なんですけれど、「春愁や 老医に患者の なき日あり」、ああそうだ、今日はもう患者さんは来ないんだ、と思うんですね。椅子に座って、春うらら、と外を眺めていますと、いろんな昔の患者さんのことが浮かんで、あのやんちゃ坊主はちゃんと結婚できたんだろうかとか、モデルさんになりたいと言っていた子はどうなったんだろうか、といろんなことが思い出されるんですね。

まぁ、春がついているためにですね、同じ憂えんでも少しは楽かなと、これが秋とか晩秋とか、別れの憂えるとちょっとね。まぁ、こういう風に浸っているうちに、昼寝をしているかもしれません。

 

●忘れられない母娘

これは、忘れられない母娘なんですけれど、このお母さんは、私が開業して2日目に来られました。歳がばれちゃいますけれど。3852グラムで生まれましたけれど、段々としょっちゅう病気をした子でした。勉強しないようになって、20歳になって恋をして、24歳で結婚して、26歳になってこの子を産みました。この子は、2849グラム、この子もせっせと同じように病気をしました。段々大きくなるに従って、病気をしなくなって、私が閉院する前の日に来てくれました。子宮頸がんの予防接種を打ちに。

41年振り返ってみますと、非常に短いようで、こうしてみると本当に長かったんだなと、思っております。

 

●本講演にあたってお世話になった方々

この講演にあたりまして、大変お世話になった方々のお名前を出させて頂きました。一番の喧嘩相手で、一番お元気な人、荒幡さん。(笑)どうもご清聴ありがとうございました。

座長 最後のまとめ 原朋邦先生

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​​Copy Right 2013 写真・撮影 落合由利子

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​​Copy Right 2013 写真・撮影 落合由利子

ありがとうございます。

先生ご自身の歴史を伺っておりますと、その端々に私達が所沢で過ごした、私は時松先生から遅れること数か月で、国立病院に赴任してきたんですが、思い出しますね。アメリカの小児科学会が出している教科書があるんですが、それに、下級のドクターは、患者さんの病気だけを診る。

それから中くらいのお医者さんは、一人の人間として患者さんを診る。

これができれば相当なものだと思うんですが、その本には中くらいと書いてあるんです。

で、非常によくできるドクターは、コミュニティをアザホールとして治療する、と書いてあります。時松先生がおやりになってきたことは、正にこのアザホールですね。

そしてコミュニティの中で、育て、ご自分も生きてこられた。

それを、中国のこれは、英語の教科書にかいてあるのは、B.C200と書いてありますので、キリストの生まれる200年前に既にこういうことを中国で言っていたと、まぁ英語で言ってなかったでしょうけどね。

そういうことが書かれており、正に時松先生は優れているドクターであり、我々もこれを真似しなければいけないなと。

その同じ小児科の教科書の中に、コミュニティーペディアトリックというのが推奨されておりまして、お医者さん達はコミュニティの中で、自分がどのように生きるといいますか、成果をやっていくかを再検討し、再確認しろ、と書いてあります。

そして、そのコミュニティにあったような活動を毎日の生活としてやりなさい、と書いています。時松先生は正に、そのことをお話頂いたんだなぁ、と思います。

それから、一般市民の方に申し上げたいと思います。私どもは、時松イズムにたっぷりと、一番長い人は41年間、浸かってきました。十分教育を受けております。

やはり、第二、第三の時松でありたい、と思っていらっしゃる方もおります。

落語家もいらっしゃいますね、そういえば。(笑)後で、笑わせてもらいますが。

ですから、どうか小児科の医者をですね、小児科の医者としてご利用頂きたい。

我々は、単に子どもの病気を診るのではない。患者さんとして扱うのではない。もっと大きくその患者さんと対応していきたい。そういうのを願望にしながら、やっている医者どもが小児科医であるという風にご理解頂いて、お付き合い頂きたい。

もっともっと、その行政も私達をこき使って頂きたい。但し、金下さい。(笑)それは、ありますが、私どもを活かして頂きたい。働きたい人は、たくさんおりますので、どうかそういう意味で所沢小児科医会と今後ともお付き合い頂きたいと思います。

時松先生には、その教科書のようなお話をみなさんに、どなたに対象にしてお話頂いたのでしょうか。あは~、と頷きながら聴いておられた元患者さんでしょうか?今の患者さんでしょうか?ぱらぱらっと混じっている医師もおりました。本当にありがとうございました。

次の400回記念、私と時松先生がいるかは分かりませんが、この会が、先生のような志を継ないで育っていってくれれば、まぁ我々としては26人で集まった時の気持ちが生きるんでないかなという風に思います。本当にありがとうございました。

所沢小児科医会 Tokorozawa Pediatric Association

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